bookmark_border[536] JAL南回り

先日、ロシア上空の飛行を避けるため欧州路線の一部でJALは「北回り」、ANAは「南回り」の運行を始めたとのニュースを目にしました。ただこの「北回り」「南回り」は昔のルートとは大きく異なるようですね。

私が昔ヨルダンに出張していたころは、北回りは会社の規則で役職が上の人しか利用できなかったため、JAL南回りで一旦アテネに出てそこから乗り換えることが多かったです。機材はDC10でした。当時は担当者でもエグゼクティブクラス(ビジネスクラス)を使うことができました。

この路線は給油のため途中3か所か4か所に寄港します。そのため成田からアテネまで20時間以上、丸一日かかりました。食事は4~5回は出たと思います。

当時のルートですが、成田を出るとまずバンコクに止まります。その後は曜日によって経由地が異なりカラチかデリーだったと思います。その先は更に複雑で、クウェートかバーレーンかジェッダに降り、カイロに寄る便もありました。ほとんどの空港で一旦降機しトランジットエリアで1時間ほど待機します。

しかし、ジェッダ(サウジアラビア)では、機内にとどまる必要がありました。着陸前には客室乗務員から「酒類は上の荷物棚にしまってください。」との注意喚起があります。サウジアラビアはとても厳格なイスラム教の国のため、酒類の持ち込みは禁止で、たとえ入国せずにトランジットでもNGでした。着陸してしばらくすると係官が乗り込んできて、通路を歩きながら一通り目視チェックします。荷物棚まで開けることはありませんでしたが、酒類を持ち込んでいることはおそらく承知しているのでしょう。形式的なチェックでした。

カイロ寄港便ですと更に遠回りになりますので、成田からアテネまで24時間近くかかったと記憶しています。

アテネに到着するのは夜で、そこで一泊して翌日アンマンに向かうので、往路だけで足掛け3日の旅になってしまいます。帰国時はバンコクまで戻って来ると同じアジアということもあって、何か日本に帰ってきたような錯覚を覚えたものです。

また、スーダンの出張では、アフリカの場合は担当者でも北回り便の利用が認められていましたので、北回りでパリに出てそこから乗り継いでいました。ヨーロッパまではノンストップではありませんでしたが、南回りとは違い、寄港地はアンカレジかモスクワの一か所だけでした。

アンカレジのトランジットエリアには立ち食いそば屋があって、現地の日系のおばさんたちが日本語で迎えてくれます。やはりバンコクと同じように、帰国便でここに立ち寄るとホッとします。

と、「北回り」「南回り」という言葉に反応して無線とは全く関係の無い昔話を長々と書いてしまいました。今では飛行機の燃費が向上し航法技術も格段に進化していると思いますので、少し遠回りしても途中で一旦降りるということも無いのでしょうね。

bookmark_border[387] 地震の記憶

昨夜大きな地震がありました。既に就寝中で緊急地震速報も揺れの後に来たためすぐには気が付かず、始めのうちはただぼんやりしていましたが、結構揺れが大きくなってきたため起きてしばらくTVで情報を見ていました。

私が住んでいる地域は震度5弱の揺れとのことでしたが、部屋の中は特に異常は見られませんでした。ベランダ内に設置したアンテナも、先ほど確認しましたが問題無いようです。

地震というと真っ先に思い出すのは10年前の3.11ですが、それと共に1968年(昭和43年)の十勝沖地震が深く記憶に残っています。まだ小学校低学年で、短期間ではありましたが当時は青森に住んでいました。

その頃は「十勝沖地震」と称していましたが、その後の調査で震源は「三陸沖北部」だったそうです。ちょうど朝の授業中で、突然の大揺れで机の下にもぐることもままならず、いつもは冷静な先生もその時はよっぽど恐怖だったのか、オタオタしていたのが印象的でした。

一階部分がつぶれたビルや橋が落下した場面など、TVや新聞記事越しではありましたが別世界に行ったような感覚でした。度重なる余震にも怯えていました。
もっともその時の震度は「5」なのですね。

今では、それくらいの揺れでもあまり恐怖を感じません。揺れに対する慣れもあるのでしょうが、最近の建物が耐震設計になっていることも大きいのかも知れません。少なくとも家や建物が大きく揺れてもつぶれたり倒れたりという恐怖心は薄れています。

ただ、大地震により生活インフラが破壊されるケースがありますので、特に飲食料品や生活用水の確保が課題ですね。また災害の際のアマチュア無線家の心得や行動については、確認しておく必要があると改めて認識しました。

bookmark_border[318] 3か国との初QSO

昨夜も空模様を気にしながらATAS-120Aを使い、30m FT8で新たに3か国との初QSOが成立しました。

まずはケイマン諸島です。

珍しい局なのか、多くの局が呼んでいてパイル気味になっており無理かなと思ったのですが、偶然にも1回めで取っていただきました。

次はベリーズです。こちらも比較的スムーズにいきました。

最後はレユニオン島です。

信号が弱くて途中JH3局やJA4局の強い信号に押され気味でしたが、何とか相手局のRR73を受信することができて良かったです。

ところで当局はレユニオンのことは不案内だったのですが、Wikipediaで調べたところ「フランス共和国の海外県ならびに海外地域圏で、マダガスカル島から800キロメートル東、モーリシャスから175km西の洋上に位置している(東経55度30分、南緯21度)。東西60キロメートル、南北55キロメートル、面積2512平方キロメートル(ほぼ神奈川県の面積)の大きな火山島」とのことです。

日本を中心にして見ると先の2つのカリブ・中米地域とは真逆ですが、おそらく電波はそれら地域を超えて伝わったものと推察します。

この他に、昨夜はウルグアイ、アルゼンチン、米国(3局)、オーストラリア、東マレーシア、インドネシア、シンガポールと、1時間半の間に12局(10か国)とのDX QSOを楽しむことができました。

下は昨夜の30m FT8の伝搬状況です。いつもと違い米国は西部ではなく中部に飛んでいます。コンディションの違いが実感できましたが、何と言ってもATAS-120Aの性能は送受信ともに素晴らしいと思います。

 

bookmark_border[175] PL/M

これも会社入社後間もない頃の昔話ですが、半年間ほど自動車電話端末のソフトウェア設計の実習をする機会がありました。

米国向けの「AMPS」というアナログセルラー方式で、その制御系の組み込みソフトのプログラミングです。ターゲットは「8085」マイクロプロセッサで、これはインテル「8080」プロセッサの電源(+12V/±5V)を+5V単一にした改良型の8ビットCPUです。

プログラミング言語は、実行速度が要求される信号処理部分こそアセンブラでしたが、それ以外はPL/Mといういわゆる高水準言語でした。AMPS仕様書は米国ベル研究所で作成され、それをそのままプログラムに置き換えることができるような優れた仕様書だったと記憶しています。

専用のコーディング用紙に手書きでプログラムを書いていき、それをキーボードで打ち込みコンパイルして生成されたコードを紙テープに移し、リーダーにかけてROMに焼くという作業が続きました。

試作品に使われるROMは丸い窓が付いているEPROMで、強い紫外線を当てると何度も書き換えが可能なものです。一方、量産品には書き換えができないPROMが使われますが、バグ修正などで量産に間に合わなくなると初期ロットにもこのEPROMが使われていました。窓から紫外線が入り込まないようにソフトウェアのバージョン番号を記載したシールが貼付されます。

今やスマートフォンなどはリモートでソフトウェアのアップデートが可能な時代ですので、量産前にバグが見つかってもそれが大勢に影響が無いものであればそのまま出荷しているのではないかと推察します。その意味では、モノづくりも効率的になったというか、逆に多少の不具合があっても、メーカー側もユーザー側も許せる世の中になったのかなと思います。

ただ、個人的にはできれば1stロットは避けたいという気持ちは未だに残っています。

bookmark_border[174] テレックス

昨年アマチュア無線を再開してから、昔のことを思い出すことが多くなりました。これは無線に対する原体験が頭の奥深くに残っているからと思われ、無線再開とブログ執筆をきっかけにその記憶部分を刺激したのだと思います。

会社に入ってからの数年間は、日本が新興国に対して通信インフラを無償供与や円借款により整備するプロジェクトが多くあり、そのため通信事情が悪い国々への出張の機会に恵まれて(?)いました。

当時はもちろん電子メールなどはなく、通信手段は電話かテレックスのみでした。ファックスはその国の事情もあり使えない状態でした。

昼間は商社の現地駐在員事務所に詰めて電話やテレックスを使わせて貰えたのですが、中々定時内に仕事が終わらず、夜遅くに日本に打電し翌朝までに回答を貰うということも続いていました。

テレックスは紙テープにキーボード穿孔機で穴を空け、それをテレックス通信端末にかけて相手先に送ります。紙テープはプログラムをROMに焼くときなどにも使っていましたので、それほど違和感はありませんでした。

夜は事務所を使えないため、ホテルの穿孔機を使わせて貰い紙テープをフロントに預けて送って貰っていました。

通信文の項目番号は11、22、33など文字を重ねていましたが、これはテレックスでは回線品質により文字抜けが多く発生するため一文字だけでは消えるおそれがあるからです。特に金額などの重要な数字は同じものを併記していました。

また外国の方に内容を見られても良いように日本語をローマ字で打っていました。ただ通信料は文字数に比例するので、なるべく文字数を減らすため自分のことを「TH」(当方の略)、相手のことを「KH」(貴方の略)、ANDを「Y」(スペイン語のAND)、句点は「Z」などを使っていました。

その後ファックスが使えるようになっても、人によってはテレックス時代の名残りなのか、箇条書きの項目をAA、BB、CCとしている人を見掛けました。またCCはカーボンコピーという別の意味もあり紛らわしいため、AAA、BBB、CCCとしている人もいました。

今となっては役に立たない経験ですが、懐かしい思い出です。