bookmark_border[547] 再び「鉄道」の話

鉄道に関する記事を書いているうちに色々と思い出しました。今では興味は薄れてしまいましたが、思い返すと結構幼いころから鉄道に接していたと改めて感じます。それは、父親の仕事の関係で各地を転々としていたことも影響しています。

断片的ではありますが、ここでは記憶に残っていることを記したいと思います。連日、アマチュア無線とは関係無い話題となりますがご容赦ください。

・1963年頃(幼稚園時代)

札幌から東京へ引っ越すときに函館まで昼間の気動車急行に乗車しました。名称は覚えていませんが「すずらん」か「ライラック」でしょうか。「アルプスの牧場」のチャイムの響きは不思議と今でも懐かしく耳に残っています。

・1964年~1965年頃

当時は東武東上線沿線(準急通過駅)に住んでおり、踏切で前面3枚窓の旧型準急電車が高速で通過するのを見るたび畏怖の念を抱いていました。「準急」へのあこがれや旧型車両が醸し出す重厚感と走行音などが、子供心に影響を与えたのかも知れません。旧型電車でも前面に貫通扉がある車両であれば何ということは無いのですが、貫通扉無しの3枚窓ものがなぜかダメでした。他方、普段乗っていた8000系では、端の席に座って妻面の窓から線路を覗きポイントを通過するたびにはしゃいでいたように思います。この電車のブレーキ臭は独特のものでした。東武の電車はその後塗装色が変わっていきましたが、やはり私にとって馴染み深いのが当時の「茶色+橙色」です。調べてみると今では「ロイヤルベージュ+インターナショナルオレンジ」と言うようですね。

また親戚が西武新宿線沿線に住んでいましたので、たまに高田馬場から西武鉄道に乗っていました。東武東上線に比べると西武新宿線は上品という感じがしましたが、西武池袋線はその中間という感じです。なぜそう思ったのかは自分でも良くわかりません。正面の顔が、西武池袋線は国鉄80系電車のような分割2枚窓なのに対して、西武新宿線は横長につながった窓というイメージで清潔感を感じたからでしょうか・・・

・1966年~1968年頃

東京から青森に引っ越す時に「はくつる」か「ゆうづる」に乗りました。20系の特急寝台列車です。青森に到着する直前、浅虫・野内間の土砂崩れのため列車は青森までたどりつくことができず、途中、仮設ホームのようなところから別の旧型客車に乗り換えました。

当時はまだ新線が開通しておらず東北本線の線路は浪岡や浦町を通っていて、堤川を渡るSLの光景は覚えています。また青森駅では「10系ではない旧型寝台車」を見ました。形式はわかりませんが、旧型寝台車を目にしたのはその時が最初で最後です。東京の親戚の家に遊びに行くときには「ヨンサントウ」のダイヤ改正で新登場した583系の「はつかり」に乗りました。

・1969年~1971年頃

青森から和歌山への引っ越しの光景はなぜか記憶に残っていません。上野までは10系/20系/583系のどれかに乗ったと思うのですが全く記憶がなく、また東京・和歌山間の移動場面も覚えていません。老化ということもあるのでしょうが、初見のものや衝撃的なことしか記憶に残らないのかも知れません。

和歌山ではちょうど南海の路面電車が廃止になるころで、車庫前近くの道路にバイパスができたり、堀止百貨店がイズミヤに変わったり、秋葉山の前のカーブで軽トラックがひっくり返る事故を目撃したり等、ここからは結構記憶が鮮明です。ただ「車庫前ラーメン」を食べた記憶がありません。車庫前のことを「しゃこうまえ」とアナウンスしていたのは覚えています。また、学校の遠足でおにぎりを持っていったのですが、皆さんは俵型のごはんが入った幕の内風の「お弁当」だったのに対して自分はおむすびだったので恥ずかしい思いをした記憶があります。別に誰のせいでもないのですが・・・。「関東煮(かんとうだき)」という言葉も和歌山で学びました。

南海電車については、市駅から和歌山(旧東和歌山)を抜けて南紀方面に向かうキハ55もどきの気動車と緑色の客車が非日常感があって珍しかったです。また和歌山港から少し南の水軒まで線路が伸びましたが、これは何だったのでしょうか・・・? 休日には父に連れられこの近くで釣りをすることが多かったのですが、周りには直線道路と海岸しかなく水軒駅の意味はわからなかったですね。

また和歌山駅には列車を見に良く行ったものです。和歌山(黒潮)国体のときでしょうか、お召列車も見ましたし、80系(82形)「くろしお」や58系「きのくに」も好きでした。特に「くろしお」が発車するとき、駅員さんが「次はキータナベー。次はキータナベー。・・・」と何度も言っているのが印象的でした。ディーゼル車で加速が悪く列車が中々離れていかないということで長いアナウンスになっていたのだと思いますが、和歌山から紀伊田辺までノンストップというのもカッコ良いと思いました。

・1972年~1974年頃

和歌山から東北への移動ですが列車ではなくクルマを使いましたのでその時のエピソードはありませんが、東京に行くときは485系「ひばり」や453系「まつしま」を良く利用していました。私がアマチュア無線を始めたのはこの頃です。

と、今日も長々と懐古趣味的な内容になってしまいました。

bookmark_border[546] 鉄道友の会

シャックの小物入れを整理していたら「鉄道友の会」のバッジが出てきました。このブログのテーマであるアマチュア無線には関係の無い話題ですが、おそらく無線に興味を持っている方は鉄道もそれほど嫌いではないだろうと勝手に想像し、今日はこのテーマで昔話をしたいと思います。

私は幼い頃から鉄道を見たり乗ったりするのが好きで、高校生になると夜行列車に揺られながら一人旅を楽しむことが多くなりました。その頃はミニ周遊券やワイド周遊券を購入したり、自分で旅程を組んで国鉄や私鉄の切符を綴じた一般周遊券を発行してもらうなど、列車に乗るまでの計画や切符の手配なども含め、本当に楽しい時間でした。

夜行列車の座席車は大抵4人掛けのボックス(クロス)シートで、必ずと言って良いほど床に新聞誌を敷き靴を脱いで、足は前の座席の狭いスペースに乗せたりして、皆さん窮屈な長時間の移動でなるべく体に負担が掛からないよう譲り合っていたものです。当時はまだ冷凍みかんとポリ容器に入ったお茶は定番だったように思います。中央本線「急行アルプス」(165系)の夜行ともなると、山登りの猛者が多いせいか、通路に新聞誌を敷いて寝たりボックス席の床面に身体を入れてきたりで密状態になっていました。でも、その時は特に珍しい光景では無かったですね。

前置きが長くなりましたが、私が鉄道友の会に入会したのはちょうどその頃です。昭和50年頃でしょうか。ブルーリボン賞やローレル賞の列車に特別に乗ることができたのは良い思い出です。

そのうち会合にも出てみたくなり、電車に関する部会に参加してみました。有楽町にあるビルの大きな会議室には会議用テーブルが四角く並べられていて多くの人が集まっていました。最初は勝手がわからずどこに座れば良いかもわからずで空いている席に座りましたが、そういう部会は皆さん大抵座る席が決まっていて、自由席でありながら半指定席のような感じで、もしかすると知らないうちにどなたかの気分を害してしまっていたかも知れません。

部会が始まると、各会員から車両編成の読み上げがありました。皆さん黙々とメモしていますが、私は新参者でどうして良いかわからず、ただただ座って聞くばかりでした。その雰囲気に、高校生ながら気まずい思いになったのを覚えています。もう少しラフな雰囲気を想像していたのですが・・・。それまで大勢の大人が集まる「会議」など参加したことが無かったので、ストレスを感じたのかも知れません。

ということで、その部会には一度出ただけで、今度は他の部会にも出てみようかとも思いましたがおそらくどこも同じだろうと思い結局それきりになってしまいました。その様なこともあり、鉄道友の会は数年で退会しました。趣味の世界でストレスを感じるのは本末転倒ですので、それで良かったのだと思います。

その後も鉄道での一人旅はしばらく続けていましたが、そのうち夜行列車が減って計画が立て難くなったりクルマの方に没頭したりして、だんだんと鉄道から離れていきました。

「鉄道友の会」のバッジを見て昔のことを色々と思い出しましたが、一方でアマチュア無線はマイペースで楽しむことができ、また他の方とのつながりも持てるため自分には向いていると改めて思った次第です。

bookmark_border[179] 通勤電車の思い出

無線とは関係の無い話題ですが、JRの185系定期運用終了のニュースに接し、学生時代から会社入社後数年に渡り東海道線で通っていた頃のことを思い出しました。

当時は、運用本数はわずかですが昼間80系旧型電車も走っていた時代でした。

やはり、せっかく乗るのであれば3つドア車(113系)よりも2つドア車(153系)という気分でしたので、185系の投入はとても新鮮で嬉しくもあり、毎日このような電車に乗って良いのだろうかという複雑な思いもありました。

185系の「8」は特急型を表し、それまでの特急というと夜行ではブルートレインや583系電車のイメージがあり、また昼行では7エリアに住んでいたころはボンネット483系「ひばり」に馴染みがあって、客車特急を除く先頭車両は、顔には逆三角形型のシンボルプレートが、車両の両側には「JNR」流線形ロゴの切り抜きプレートが付けられ、各駅停車や急行とは色も形も一線を画した特急ブランドが形成されていました。

それに対し185系は、顔に小さなシンボルプレートは付けているものの、特急型ながら窓は開きシートも当時の特急のものより簡素で、斜めストライプのカラーリングは特急とは思えないような斬新なものでした。車両のコンセプトとしては153系や157系のいわゆる急行型の後継だったのかも知れませんが、各駅停車から特急までフレキシブルに運用させることから、あえて特急型の型番を付けたのだそうです。ただやはり「8」には違和感がありました。

それから40年が過ぎ、今やレトロ車両という感じなのでしょうか。窓のラッチレバーやタバコのヤニ色が染みついた内装、大きなモーター音など、それまであまり意識しなかった昭和のものがまた一つ無くなっていくのは少し寂しい気がします。